2021年01月11日
小樽には、日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間 ~北前船寄港地・船主集落~」に認定されている文化財があります。この貴重な文化財について、また、日本遺産に認定された背景などについて詳しくご紹介します。
「北前船」とは、18世紀中頃(江戸中期)から明治30年代にかけて、当時の大坂(現:大阪)を中心とした上方と蝦夷地(現:北海道)の間を、瀬戸内海から日本海にかけて買積船(積み荷を各地で売買する商船)として航行していた北国廻船のことを指します。主に「弁財船」と呼ばれる木造帆船が使われ、造船技術の発展に伴って改良を重ねて大型化し、千石船などとも呼ばれていました。最盛期には、1往復するだけで千両もの利益を得ることができたとも言われており、現在の価値に換算すると最大1億円ほどの利益にもなったようです。
2017年に認定された日本遺産で、後年追加認定された文化財も含めると16もの道府県にまたがっており、北海道では小樽市の他に、函館市、松前町、石狩市が含まれています。瀬戸内海から日本海側に点在するこれらの港町には、北前船を使った廻船業などで財を成した商家や船主の豪華な屋敷や大きな倉庫などが残されています。
一方で、日本海の荒波を超えながら航海する北前船は、常に難破などの危険と隣り合わせだったため、寄港地にある神社やお寺には航海の安全を祈願するために奉納された北前船の絵馬や模型などが残されています。
江戸時代には、武士を頂点とした厳しい身分制度がありましたが、船乗りとなってお金を貯め、自分の船を持って航海できるようになると、自分の才覚と努力と運次第で大金持ちになることができるかもしれないという、まさに「北前船ドリーム」を夢見た人たちが多くいて、この日本遺産に指定された寄港地では、その夢の結晶とも言える文化財を見ることができます。
北前船は現代で言うところの「総合商社」のような役割を果たしており、寄港地へと多種多様な商品や資材を運んでいました。
大阪から北海道までの「下り荷」としては、主に蝦夷地に住む人々への食料品(米、酒、砂糖、塩など)や生活品・日用品(衣類、紙、蝋燭、薬など)が、また、大阪への「上り荷」はほとんどが海産物で、昆布や鰊などが運ばれていました。今では和食に無くてはならない存在ともなっている昆布出汁も、蝦夷地から運ばれた昆布によって関西を中心に広まったことが元となっています。また、蝦夷地から運ばれた鰊粕や干鰯などは綿花栽培の肥料として使われ、国内に木綿の衣料が普及する土台となりました。
そういった意味では、北前船が運んだ荷物が、衣食に関連した日本文化を一変させるほどの影響をもたらしたと言っても過言ではなかったようです。
また、京都や上方から伝播したと思われる祭礼や、寄港地の繋がりが推測できるような節回しが似た民謡なども各地に残っていることから、北前船は物資だけではなく文化も運ぶ役割を果たしていたと考えられています。
後年船が自由に航行できるようになり、北前船は道南からさらに北へと寄港地を広げてゆきました。小樽は北前船の歴史の中では最後の方に登場する寄港地ですが、大型化した船と活発化した往来で、海運業や廻船業、倉庫業を中心に急激な発展を遂げ、街の繁栄期を迎えてゆきます。
1)日和山
船乗りが出航前に日和を見ていた場所で、航海の目印にもなっていました。明治16年に点灯された灯台があり、これは北海道東端にある納沙布岬に次いで北海道で2番目の古さを誇っています。近くには夕日スポットとしても有名な祝津パノラマ展望台があり、行き来する船を眺めることができます。灯台は、2019年に大規模な改修工事が行われて化粧直しが終わり、海を背景にした赤と白のツートンカラーが色鮮やかに蘇りました。
2)旧北浜地区倉庫群
・北運河付近(旧右近倉庫、旧広海倉庫、旧増田倉庫)
北運河近くに建ち並んでいる石造倉庫群。旧広海倉庫は明治22年、旧右近倉庫は明治27年、旧右近倉庫は明治27年に、福井県や石川県出身の北前船主によって建てられました。建設当時は倉庫のすぐ前が海で、手宮駅や港に近かったために輸送と貯蔵に最適な場所にありました。
・旧大家倉庫:
明治24年に石川県加賀市の北前船主・大家七平によって建てられた2階建ての石造倉庫。入口部分の二重アーチと妻壁の「へ七(やましち)」の屋号が目を惹きます。
・旧小樽倉庫:
明治23~27年にかけて石川県加賀市の北前船主・西出孫左衛門と西谷庄八によって建てられた1階建ての木骨石造倉庫。煉瓦造りの事務所を挟んで左右対称に建てられており、瓦屋根に鯱を載せた和洋折衷のデザインと中庭がある優美な空間使いが特徴です。現在、北半分を小樽市総合博物館運河館として活用し、北前船関連の資料を多数展示しています。また、南半分は運河プラザとして、観光案内所や土産物店などとして利用されています。
3)旧魁陽亭
北前船の船主や船乗り、商人たちが贔屓にしていた老舗料亭で、開陽亭や海陽亭などと亭名を変えながら、2015年まで営業していました。現存する建物の大半は大正期に増築されたものですが、2階の大広間「明石の間」は明治29年の大火類焼後に再建されたものとされています。木造2階建ての和洋折衷様式で、小樽市の歴史的建造物にも指定されています。明治39年に日露戦争後の樺太国境画定会議後の祝宴が開かれるなど、日本史の舞台にも登場したことがあり、榎本武明や伊藤博文、石原裕次郎など、数多くの政財界・芸能界の著名人も利用した料亭です。
4)奉納物(住吉神社)・船絵馬群(恵美須神社、龍徳寺金比羅殿)
北前船の船主らは、航海の安全を神仏の庇護に求め、神社や寺院に様々なものを奉納しました。住吉神社の第一鳥居は、北前船主の大家七平・広海二三郎兄弟が寄進したもので、左右の石柱には2人の名前が刻まれています。また、恵美須神社や龍徳寺金比羅殿には、奉納された船絵馬が残っています。
5)小樽市総合博物館運河館(旧小樽倉庫)所蔵の写真・文書
明治30年代以前の北前船や寄港地の街や港の様子を記録した200点超の写真や、北前船の廻船業を営んでいた西川家の文書が保管されています。
小樽市に現存する倉庫群などの文化財の中には、北前船がもたらした街の繁栄の賜物であると言えるものがたくさんあります。小樽市では、この遺産を長く後世に伝えてゆくためにも、今後も大切に守りながら活用してゆくことが検討されています。