小樽情報
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渋沢栄一と小樽

2021年02月14日

今年の大河ドラマの主人公は、小樽にもゆかりがある「渋沢栄一」なので、とても楽しみです。

渋沢栄一といえば、2024年から新しい1万円札の顔にもなる「日本の資本主義の父」「日本経済の父」とも呼ばれる人で、生涯に500以上もの会社の設立・運営等に関わったと言われています。

渋沢栄一は、倒幕の志士から幕臣、明治政府の官僚、そして後年は実業家となり、さらには民間外交官としても活躍するなど、振り幅の大きい数奇な人生を歩んだ人だったようです。新しい大河ドラマスタートに合わせて、幕末から昭和に至るまでの渋沢栄一の活躍と、小樽との関係について詳しくご紹介します。

◆生い立ちから明治維新まで

渋沢栄一は、1840年(天保11年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれました。生家は米や野菜を作るとともに、養蚕業や藍玉の製造・販売なども手掛ける富農だったため、成長の過程でビジネスの才覚が自然と身についていったようです。また、教育熱心な家庭環境で育ったため、幼いころより父親や従兄などから「論語」や「四書五経」なども学んでいたそうです。

江戸に出てからは尊王攘夷の思想に影響を受けて活動していたにもかかわらず、追われて京都に移ってからは、一転して後に第15代将軍となる徳川慶喜に仕えることとなります。まさに、思想的には180°の大転換と言えます。その後、慶喜の名代としてヨーロッパ視察にでかけた慶喜の弟・徳川昭武に随行し、各地で先進的な産業・諸制度に触れる機会を得ました。その際の経験が後の彼の活躍の基盤となったようです。

そのヨーロッパ視察中に日本では大政奉還が起き、明治維新となって帰国することとなりました。

◆明治維新~大蔵省時代

帰国した渋沢栄一は、静岡に日本初の合本組織(株式会社)「商法会所」を設立。その後、民部省や大蔵省に仕官し、度量衡の制定や国立銀行条例制定に携わったほか、紙幣寮の初代寮頭を務めるなど、新しい国づくりに深く関わってゆきます。また、その間には、現在ユネスコの世界遺産に指定されている富岡製糸場設置主任として製糸場設立にも関与しました。しかし、予算編成を巡って大久保利通や大隈重信と対立し、明治6年(1873年)に大蔵省を退官し、官僚生活はわずか4年あまりで終了します。

◆実業家として

大蔵省を辞めた後は、一民間経済人として活躍します。設立を指導した第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監役就任を皮切りに、500以上もの会社の設立や運営、支援に携わりました。有名なところでは、東京証券取引所、東京瓦斯(現・東京ガス)、東京海上火災保険(現・東京海上日動火災保険)、王子製紙(現・王子製紙、日本製紙)、石川島平野造船所(現:いすゞ自動車、ほか)、秀英舎(現:大日本印刷)、中外物価新報(現・日本経済新聞)、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)、日本鉄道会社(現・東日本旅客鉄道)、共同運輸会社(現・日本郵船)、東京電灯会社(現・東京電力ホールディングス)、大阪紡績会社(現・東洋紡)、浅野セメント工場(現・太平洋セメント)、ジャパンブリュワリー(現・キリンホールディングス)、札幌麦酒会社(現・サッポロホールディングス、アサヒグループホールディングス)、清水組(現:清水建設)、東京人造肥料会社(現・日産化学)、日本土木会社(現・大成建設)、足尾鉱山組合(現・古河機械金属、古河電気工業、富士通、富士電機、横浜ゴム)、汽車製造(現・川崎重工業)、東京ホテル(現・帝国ホテル)、帝国劇場会社(現・東宝、東京会館)など、そうそうたるラインナップです。渋沢栄一が携わった会社は、合併や分割等の変遷を経つつも現在まで存続しているものが多いというのも驚きです。まさに、「日本経済の父」と呼ばれるにふさわしい活躍です。

◆慈善家として

渋沢栄一は、事業のほかにも約600もの社会公共事業、福祉・教育機関の支援に携わっています。生活困窮者救済や赤十字運動に力を入れたほか、東京慈恵医院(現・東京慈恵会)や聖路加国際病院などの医療機関の設立や支援、商法講習所(東京商科大学を経て、現・一橋大学)や大倉商業学校(現・東京経済大学)などの実学教育を実施する大学の設立にも尽力しました。また、同志社大学や早稲田大学の創立にも協力しています。特に注目すべきは、女子教育の必要性を訴えて東京女学館や日本女子大学の創立を支援したことではないでしょうか。まだ男尊女卑的思想が強かった時代に、大変に先見的な活動だったと言えます。

さらには、民間外交にも熱心に取り組みました。1909年(明治42年)には 渡米実業団を組織し団長として渡米し、タフト大統領と会見したほか、貿易摩擦の解消と相互理解の進展に努めました。また、1914年(大正3年)に 第1次世界大戦が勃発すると、日中経済界の提携ため中国を訪問、1921年(大正10年)にはワシトン軍縮会議出席と排日問題緩和のため訪米し、ハーディング大統領と会見。 1927年(昭和2年)には日本国際児童親善会を設立し親善交流に努めるなどの活躍をしました。その功績から、過去2回ノーベル平和賞の候補にもなっています。

◆渋沢栄一と小樽

渋沢栄一は明治末期に来樽しており、完成したばかりの長大な防波堤や石炭の出荷施設を視察し、急激に発展する小樽の姿を目の当たりにしています。倉庫業にも投資していたため、ニシン漁で財を成した実業家・遠藤又兵衛が1892年(明治25年)頃に建てた倉庫を1915年(大正4年)に入手しました。昔の面影を残す北運河に面していて、当時の石壁や木造の骨組みが残る貴重な建物として有名です。「旧澁澤倉庫」として、1991年(平成3年)に小樽市の歴史的建造物に指定され、現在はライブハウスやカフェとして利用されています。

また、浅草橋近くの運河沿いにも鉄扉に「澁澤倉庫」と大きく書かれた倉庫があります。小樽観光で訪れた人が、必ずと言ってよいほど立ち寄る場所なので、知らず知らずのうちに撮影した小樽運河の写真にも、しっかりと写っている可能性が高いです。

さらには、渋沢栄一が創設した日本初の銀行「第一国立銀行」を前身とする旧第一銀行の支店も小樽にあります。

ぜひ、渋沢栄一が残した功績に思いを馳せながら、小樽観光と大河ドラマを楽しんでみてはいかがでしょうか?



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