2020年06月28日
小樽運河から一本山側を通る色内大通りや堺町通りと、旧日本銀行小樽支店(現・金融資料館)がある日銀通りが交差する界隈には、小樽が「北のウォール街」と呼ばれていた頃に軒を連ねていた銀行の古い建物がたくさん残っています。
最盛期には25行もの金融機関が小樽に支店を出し、北日本随一の金融都市として栄えていました。金融機関が数多く進出した背景には、明治から昭和初期にかけて、小樽が商都として発展する礎となった3つの経済的要因がありました。
江戸時代から明治時代において、ニシンから作られるニシン粕が、本州において綿花や菜種、藍などの作物の肥料として活用されていました。小樽地区では最大で年間9万トンものニシンが水揚げされ、漁の時期になると全国からたくさんの漁師や出稼ぎ労働者が集まり大変にぎわいました。当時は、春先2-3ヶ月の漁で1年暮らせるくらいの収入になったと言われています。
今でも、ニシン漁に集まった季節労働者が寝泊まりしていた大きな番屋や、ニシンの商いで巨万の富を得た網元や豪商が建てた豪華な屋敷などが残っており、一部は鰊御殿として公開されています。
小樽は北海道各地で採掘された石炭の最大の積出し港としても栄えました。特に、幌内村(現・三笠市)にあった幌内炭鉱からの石炭輸送のために、北海道初(日本で3番目)の鉄道が建設され、1880年(明治13年)に小樽手宮ー札幌間が開通、1882年(明治15年)に幌内までの全線が開通したことが、小樽発展の原動力になりました。ほかにも、道内から集めた木材や海産物の缶詰なども小樽から大量に積み出されてゆきました。
現在の小樽には、廃線となった旧手宮線の線路などの遺構が残されているほか、旧手宮駅の構内敷地跡に建てられた小樽市総合博物館本館には、当時の蒸気機関車を復元した「しづか号」が展示されています。
1904-1905年(明治37-38年)の日露戦争に勝利し、南樺太が日本に割譲され、旅順や大連などを含む地域が日本の租借地になりました。このとき、北運河近くにある旧日本郵船小樽支店(現在休館中)の2階会議室は、ポーツマス条約に基づく日露間の樺太国境画定会議に使われました。
さらに、1932年(昭和7年)には日本の傀儡国家・満州国が中国北東部に誕生し、小樽は地理的にこれらの地域と近かかったことから、物資の供給拠点として重要な地位を築いてゆき、交易や海運業、輸出入関連業などが発展しました。
これら3つの急激な経済発展が金融機能の必然性を生み、小樽にたくさんの金融機関が集まり、ここが「北のウォール街」と呼ばれるようになりました。また、現在の小樽観光コンテンツの中心を成している小樽運河や石造り倉庫なども、こういった経済的要因を背景に生まれたものです。
しかしながら、第二次世界大戦後に領土を失ったことによる貿易の衰退、昭和30年頃から始まる鰊の本格的な不漁、そして、石油へのエネルギー転換に伴う炭鉱の閉山と、戦後から1970年代にかけて次から次へと小樽経済に悪影響が及び、街は急速に衰退してゆきました。
1970年代以降は「斜陽の街」とまで揶揄されるようになり、ヘドロが溜まっていた運河も埋め立て計画が持ち上がるまでになりました。しかし、埋め立てに反対する小樽運河保存運動を機に市民の意識が変わり、現在では、小樽が最も華やかだった頃の遺産をうまく観光資源として活用し、観光産業を基盤とする国際観光都市・小樽が誕生しました。
ぜひ小樽にお越しの折には街のあちこちに残る歴史遺産を訪ねて、街の変遷にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?