2021年06月07日
小樽の歴史を数回に渡ってご紹介します。どの時代の遺産も小樽にとっては大切な観光資源のはずなのですが、華やかな明治大正期の歴史遺産に比べると、さらに古い時代の観光スポットは地味で、小樽市の観光ガイドマップでもほとんど紹介されることがないので、少しマニアックな観光情報かもしれません。
小樽には、縄文時代から人が住んでいた痕跡があり、特に、蘭島、忍路、塩谷、手宮などの小樽西部エリアには、蘭島川の河川改良や国道5号線の拡幅工事、手宮の団地建設などの際に発見された数多くの縄文遺跡が報告されています。小樽市内にある最古の集落跡は、縄文早期・約8,000年前のものであると言われているのですが、市内にある縄文遺跡の中でとりわけ有名なのは、忍路と地鎮山にあるストーンサークル(環状列石)です。
国指定の史跡「忍路環状列石」は、今からおよそ3,500年前の縄文後期に作られたもので、日本の考古学史上において学術的調査・報告が最初に行われた環状列石です。最大直径33mの楕円形に石が配置されていて、1-2mある大きな石が丸く配置されている外側に、小さい石が配されているため、二重・三重の環状になっています。
「地鎮山環状列石」は北海道指定の史跡で、こちらも約3,500年前の縄文後期のものです。最大直径10mの楕円形に石が配置されており、中心部の地下1m程の深さの穴の底には石が敷かれています。
小樽・余市周辺には80もの環状列石があるそうですが、小樽市内では特に上記の2つが有名なので、ぜひ興味のある方は訪れてみてください。
詳細はこちらのページ「ストーンサークルの密集地★縄文時代の小樽」でご紹介しています。
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/stone-circles
弥生時代が存在しない北海道では、縄文時代の次に「続縄文(今から約2,300年前から約1,300年前まで)」と呼ばれる時代が来ます。小樽市内に残るこの時代の代表的な史跡が「手宮洞窟」です。
国指定の史跡で、洞窟内には今から1600年ほど前の続縄文時代の人々によって刻まれた貴重な彫刻が残っています。発見当時は古代文字ではないかという説もありましたが、その後の調査から文字ではなく絵(刻画)であることが分かってきました。
また、洞窟内に描かれている「人」はシャーマンで、海を挟んだ北東アジアやシベリアの人々と交流があった可能性も示しているそうなので、壮大な古代ロマンを感じさせる史跡です。
詳細は、こちらのページ「ロマンあふれる古代アート★手宮洞窟」でご覧ください。
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/temiya-cave
北海道では、続縄文時代の後には擦文時代がくるのですが、小樽市内には特に見学できるような擦文時代の遺跡等が見当たらないので、これを省略し、地名などに多く痕跡が残っているアイヌ文化の時代をご紹介します。
そもそも小樽(おたる)という名前も、札幌と小樽の間を流れている川がアイヌ語で「オタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)」と呼ばれていたことに由来しています。1,500年代には既にアイヌの集落があったという記録がありますが、いつ頃から住んでいたのかは定かではありません。この土地に和人がどんどん入ってくるようになり、アイヌと和人が交易をする「場所」のはっきりとした記録が出てくるのは、1,700年代からです。
小樽には、主にオタルナイ、タカシマ、オショロの3つの場所があったとされています。「場所請負制」が布かれ、それぞれの場所請負人の下で、アイヌ・和人双方から持ち込まれた物品が交換されていたようです。
あまり確かな記録は残っていませんが、小樽のタカシマアイヌについては、こちらもブログでもご紹介しています。
https://grandparkotaru.com/blog/otaru-info/ainu-in-otaru
また、グランドパーク小樽から朝里川温泉へ抜ける道筋にある望洋東公園には、かつてアイヌの砦「桜チャシ」がありました。「チャシ」はアイヌ語で「砦」の意味で、崖や丘の上などの高いところに濠をめぐらして作られています。戦いのためのものなのか、祭事のためのものなのか、明確には分かっていません。
北海道内には500以上ものチャシが発見されています。小樽市内にも複数あるそうですが、桜チャシ以外は容易に到達できない場所にあるそうなので、ご興味のある方には公園内にある桜チャシの見学をおすすめします。
小樽では、小樽運河を代表とする明治大正時代の歴史遺産が観光資源の中心になっているので、さらに古い時代のものはあまり注目されることがありません。しかし、学術的にも重要な遺跡もありますので、ぜひこの時代の観光スポットにもおでかけください。
▶5回目につづく(近日公開)