小樽情報
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小樽とタカシマアイヌ

2020年07月13日

2020年7月12日、北海道白老町に、民族共生象徴空間「ウポポイ」がオープンしました。漫画&アニメの「ゴールデンカムイ」の人気と相まって、アイヌとアイヌ文化への注目が増々高まっています。

北海道にはアイヌ語に由来した地名がたくさん残っているのですが、そもそも「小樽」という地名も、札幌と小樽の間を流れている川がかつて「オタ・オル・ナイ(砂浜の中の川)」と呼ばれており、それに由来していると言われています。

その他の小樽市内の地名については、こちらのブログをご覧ください。
▶アイヌ語に由来した小樽の難読&面白地名


※グランドパーク小樽からみた高島方面(写真左手)

小樽にも、アイヌが住む部落があり、アイヌと和人が交易をする「場所」が複数ありました。日本史の教科書に出てくる「場所請負制」― 和人の商人に場所請負人としてアイヌとの交易を代行させ、商人から運上金をとる制度 ― が敷かれ、忍路から西のオショロ場所、忍路から於古発川(妙見川)までのタカシマ場所(シクズシ場所)、そこから手稲までのヲタルナイ場所で交易が行われていました。

一般的には、アイヌからは獣皮・鮭・ニシン・鷹羽・昆布、和人からは鉄器・漆器・米・タバコなどが持ち込まれ交換されていたそうですが、小樽にあった場所で何が交換されていたかは分かりません。

アイヌは文字を持たないので記録された文献がないのですが、和人が北海道に入って記録した資料によると、1800年代初頭にタカシマには200人近くのアイヌが住んでいたそうです。

同じころに江戸から訓練のために訪れていた砲術師・井上貫流左衛門が描写した21の絵画が「タカシマのアイヌ民族の絵巻物(北海道立文学館所蔵)」として残されています。そこには、酔っぱらった男性を引っ張って連れて帰る女性、子供の便秘を治療している女性、蛇に驚く男性など、活き活きとした人々が描かれ、その頃のアイヌの日常生活を垣間見ることができます。

その後の小樽は、本州でニシンの需要が高まると共に、ニシン漁で栄えてゆきます。アイヌの貴重な交易品の1つだったニシンを、和人が中心となって大量に獲るようになり、すでに和人との交易が生活の中に根付いていたために、経済的に追い詰められていったアイヌも多くいたようです。和人が行うニシン漁やニシンの加工作業、「場所」での様々な重労働にアイヌが従事させられるケースも多々ありました。

生活の基盤を奪われただけではなく、和人が持ち込んだ感染症や流行病によって命を落としたり、強制的に別の場所に移住させられるというケースもあちこちであったようで、明治初期にはタカシマのアイヌの人口も20-30人にまで急減しています。

小樽が「北のウォール街」と呼ばれるほどの発展を遂げた裏には、はっきりとは記録に残っていない点も多いとはいえ、古くからこの地に住んでいたアイヌの生活を激変させ、人口を大幅に減らしてしまうような出来事があったことも事実です。



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